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不登校専門カウンセラー

カウンセリング・プロフィール

『こころを灯す 寄り添いカウンセラー』

不登校専門カウンセラーの佐藤さり です

私は離婚を2度経験し、一度目の元夫のもとに1人の息子を授かりました。

私は、幼少期から”自分の気持ち”を後回しにしてしまうクセがあり、人の顔色を伺いながらこれまで他人を優先に生きてきました。

若いころから、誰といても何をしても満たされず、

自分が何をしたいのか、どうしたいのか。

だけど、子供といる時間は楽しく私の人生そのものが彩られているように思えました。

はいはいができた

初めてママ・パパと呼んだ

一人で立った・歩いた

保育園や幼稚園に通うようになった

お友達ができた

小学校に入学して大きなランドセルを背負った小さな背中がたくましくも見えた

運動会や学芸会では年々表現力が増して見えた

小学校卒業して中学校になって思春期になっていくんだな・・・

子供の成長は、私の幸せそのものでした。

こうやって、ずっと見守っていきたいな… 

こんな日々がずっと続いていったら良いな…

そんな気持ちで日々を過ごしていました。

「息子の不登校に向き合った日々|小5の春、突然の不登校」

まさか自分の子供が不登校になるなんて思いもしませんでした。

2度目の離婚をして数カ月経った頃です

時々学校に行きたくないと行き渋り、騙しだまし行かせる日々

頭やお腹が痛いと言っては休むことが増え、

そのうち玄関で靴を履いては地団太を踏んで泣きじゃくり、その後の一歩が踏み出せない

無理やり引っ張って車に乗せ、学校に到着したもののパニックで過呼吸になり帰宅

そして流行の感染症にかかって長期に休むことになり、

とうとう学校へ行けなくなりました。

「僕は不登校なの?」

チック症状が出始め、生活リズムは昼夜逆転し、お風呂も入れない、歯磨きもできない、郵便屋さんが来ただけで物陰に隠れ、お友達が玄関ベルを鳴らすと知ると怯えて自分の部屋に閉じこもる

あんなに可愛い笑顔が消えた・・・

当時、小学校5年生の春でした。

「看護師として働きながら、母として葛藤した日常」

当時私は総合病院で看護師をしていましたが、

上司やスタッフに事情を説明して、

仕事を休み、遅刻や早退を繰り返す日々を送っていました。

仕事に出ている日は、スマホをポケットに入れて、いつでも子供と連絡を取り合えるようにしていました。

「いつ帰ってくるの?」「頭が痛い」「お腹が痛い」と

連絡が来るたびに早退し、

朝から調子が悪いと急遽休ませてもらうことが増え、

私自身も

なんでこうなったんだろう

育て方が悪かったのか

離婚を2回もして、何度も環境の変化を与えてしまったのがいけなかったのか

甘やかしすぎたのか

将来はどうなってしまうのか

勉強に追いつけるのか

仕事しないと生活ができないし食べさせていけない

このままだと職場に迷惑がかかってしまう

私は何をやっているんだ

辛いときにずっと一緒にいてあげられない

こんな状態の子を一人で家で過ごさせなんてダメな親だ

子どもの将来は?

どうしよう・・どうしよう・・本当にどうしたらいいだろう・・

自分を責めていました。

子供のことも「どうして学校へ行けないの」と心の中で責めていました。

私自身までも不安になり、落ち込み、強烈な孤独感に襲われとうとう限界になりました。

でもこれではいけないと、職場にいた同僚に時間を作って話を聞いてもらい、心理学を学び始めカウンセラー資格を取得しました。

聞く言葉や見る言葉は

「無理はさせなくていい」

「今は休ませてあげる時間。心と体のエネルギーが十分に溜まったら、自らの足で立ち上がるから大丈夫。」

「あなたはあなたのままで、いつも通りの母でいよう」

そのような言葉ばかりでした。

子どもともコミュニケーションを意識的に図るようにしました。

そしていつも通りを意識して関わりました。

「おはよう」「ごはんだよ」「今日は何しようか」「お風呂入って寝る支度しよう」「おやすみ」

そうは言っても、いつも通りでいる難しさを感じたり、これで本当にいいのか迷うときもあったけど、

やっぱりもう一度あの可愛い笑顔を見たい!

だって

人は幸せになるために生まれてきたんだし、

幸せを味わうために生きていくんだから!

—–子供には、自分らしく生きて行ってほしい—

「限界を感じて、退職と引っ越しを決断|母としての決断」

私は退職を決断しました

「ママは仕事を辞める。そして、あなたの行きたいところ・ワクワクするような場所へ行こう」と提案しました。

飛行機に乗って海を越え関東や関西、南の島に行くのもできる

生きていくためには選択肢はたくさんある、と。

子どもにどうしたいかを聞いてみたんです

そして、子どもが選んだのは

「自分が生まれた町へ帰る」でした。

私は引継ぎのために数カ月働いた後に退職しました。

お金の不安はありましたが、仕事はしばらくしないと決めて、

お金は、生活できなくなったらその時働けばいいや!

何とかならないかもしれないけど、今考えても仕方がない!と。

そして引っ越しの準備をして、息子の生まれた町へ来ました。

これまでの親子の時間を取り戻すかのように、とことん一緒に過ごし、

愛犬も一緒に・・まるで家族の気持ちがわかるかのように、寄り添ってくれました。

長期の休みと称して自分自身を見直すきっかけにもなり、考えていたことは

人は、千差万別

生まれてきた場所も環境も性格も

好みも苦手も得意も

みんな違ってそれでいい。

目的地まで遠回りしたっていい

この時間は、将来あってよかったと思える日が必ずくる!

私は、これまで他人を優先に生きてきました。

若いころから、誰といても何をしても満たされず、

自分が何をしたいのか、どうしたいのかわかりませんでした。

また、人に頼ることが苦手で誰にも相談できない自分

でも、何か違うと気づき始めました。

私は親で子どもを優先に考えることも大事だけど、一人の人間で

ネガティブな気持ちに気付いて認めて、受け止めて抱きしめてあげることも

必要なんじゃないのか。

楽しいと思えることをしたり、自分を満たしてあげることも大事なのではないか

私も、自分自身を大切にしよう!

そして、私自身も人生楽しもう!

「チックと昼夜逆転の息子に訪れた変化」

息子をどうにかしようと必死だった私ですが、あるとき私自身が苦しいと気づき、

そこから、自分自身の声に耳を傾け始めたことで息子との関係にも少しずつ変化が起きてきたのです。

これまでにあったチック症状は見る見るうちに減り、動画やゲームをしていても生活リズムは整いはじめ、よく食べて眠れるようになりました

そして、消えていた笑顔までも取り戻しはじめたのです。

もう二度と学校という場所に足を踏み入れることはないと諦めていたのに、

新しい学校に転校後、身体測定と学力テストがあると伝えると「行く」とまさかの返答で、

宣言通りその2日間学校に行けることができたのです。

案の定、疲れが大きくその後も行けなかった期間もあったのですが、

三者面談を行うきっかけがあり、声かけると「行ってみる」。

そこから徐々に放課後登校から部分登校までステップアップし

買い物など外出の頻度が増えたのです。

それが、6年生の秋でした。

「不登校の子を支える親自身が”癒される”居場所を」

看護師という職業柄や心理学を学んでカウンセラー資格を取得したとしても、

いざ自分の子となると悩んだり苦しんだり路頭に迷うものです。

冒頭にお伝えしたように、私は人の顔色を伺って自分の気持ちを後回しにしてしまうクセがあったことから、

なかなか根底にある心の辛さを言えないことや自分の気持ちに見て見ぬふりをして、自分自身をも苦しめていました。

正直どんなことをどんな風に相談して良いかもわかりませんでした。

外出できるまでの回復を迎えたタイミングで、

きっと、私以外にも同じように苦しんでいる方がいるかもしれないと感じ、不登校支援に関する仕事に就きました。

長いトンネルの中にいるように、光が見えずいつここから抜け出せるか検討もつかない場所を経験した私だからわかることがある。

可愛い子供のために心をすり減らして涙を流しているお父さん、お母さん

悩んでいいんです

落ち込んで当然。

私にはわかります

なぜなら、一生懸命悩むこと自体が精一杯頑張っている証拠で、子を想う愛情だからです

誰にも言えず理解してもらえなかった悲しみや辛さ、情けなさ、孤独感...

たくさん感じていたことと思います

私もそうでしたから!

居場所は子供にも大事だけれど、大人である私たちも大切だと思います

子どもを全力で支えているからこそ、お父さんやお母さんのエネルギーも必要

私は、日々頑張っているお父さんやお母さんにも笑顔になってほしいと思います

あなたらしく

子どもと幸せを感じる未来を、

一緒につくっていきませんか

優しい時間と暖かい心を感じて、こころを灯せるお手伝いをさせていただけたらと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。